ラウル・デュフィ

ラウル・デュフィ

ラウル・デュフィ(Raoul Dufy)は、野獣派に分類される、19世紀末から20世紀前半のフランスの画家である。「色彩の魔術師」と呼ばれ、20世紀を代表するフランス近代絵画家である。

買取・査定・鑑定はこちら

 

ル・アヴールからパリへ

 兵役を終え、ル・アヴール市から月100フランの奨学金を与えられたデュフィは、1900年、23歳でパリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学する。レオン・ボンナのアトリエに入って、先に入学していたフリエスと再会するが、デュフィはアカデミックで厳格なこの教室の雰囲気になじめなかった。ルーヴル美術館に飾られている巨匠の作品も、彼にとってはあまりにも遠い存在で、模写にも熱が入らなかった。

 デュフィは良くパリの街を歩いた。とりわけ、画廊の多いラフィット通りが気に入っていた。若いデュフィを魅了したのは、モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンなどの個性的で強烈な作品だった。

 新しい世紀の始まりであった当時のパリでは、印象派はすでに時代遅れになりつつあり、画壇には芸術の革新を目指す若い情熱が燃えていた。新しい世代の画家たちは、色彩の完全なる開放を主張して野性的な生命力をカンバスに表現した。フォーヴィスム(野獣派)である。素晴らしい技巧上の可能性と若々しい熱意をもった25歳のデュフィは、この冒険にためらうことなく飛び込んでいった。

 学校での古典的な習作に始まり、印象派、フォーヴィスム、キュビズムと歩んできたデュフィであるが、興味深いのは彼がなにものにも属さなかったことである。デュフィ自身にいわせると、「転々と放浪し実験を重ねることによって、自分の絵に必要な大切な発見をした」ということなのだが、彼が旺盛な探求心と同時に素晴らしいバランス感覚の持ち主であった証拠であろう。

多彩な活躍

 1910年、まだ経済的に苦しかったデュフィは、ノルマンディー地方のオルビッユにある貧しい画家たちのための無料の仕事場に滞在して制作に励んでいた。詩人たちとの交流があった彼は、ここで友人アポリネールの『動物誌』のために木版の挿絵を制作した。

 ほかにも友人であった服飾デザイナーのポール・ポワレの依頼で、布地プリントのための版を作る仕事をはじめ、さらにはリヨンの絹織物業者ともデザイナー契約を結ぶことになる。

 1919年から翌年にかけて、デュフィは地中海沿岸のヴァンスに滞在した。気取りがなく社交的なデュフィは友人も多く、詩人のジョアシャン・ガスケが開くパーティにはよく顔を出していた。彼が詩人のポール・ヴァレリーと知り合ったのもこの席上である。

 彼は絵画活動以外にもとても精力的であった。リトグラフや銅版画、あるいはカタルーニャの陶芸作家と組んで陶器のミニチュア庭園を制作したり、鮮やかな色彩のタスピリーを国際装飾美術展で披露したりと多彩な活躍を見せた。

「ル・アーヴルの水の祭り(ル・アーヴル海軍閲兵式)」1925年 パリ市立近代美術館所蔵

 

ニースのアンジュ湾 1926年

 1927年、デュフィはニースに滞在してヴィアール博士邸の食堂の装飾に取り掛かった。50歳のときである。このころ描かれた《ニースのカジノ》などの作品からは、この時期にデュフィの画風がゆるぎなく確立されたことがわかる。1932年には、《ドーヴィルの競馬場裏》がデュフィの絵としては初めてリュクサンブール美術館に入ることとなった。

▣ポール・ポワレ
 ポール・ポワレは、服飾デザイナーとして大胆な新機軸を打ち出した人物で、ドレスに流動的なスタイルを導入して女性のシルエットを変えた。そして、ファッションの大使として世界にパリジェンヌのエレガンスを売り込んだのである。
 やがてポワレは家具や包装紙、アクセサリーにまで手を広げ、さらには一連の香水まで世に出した。それがパリで最初の高級洋装店「ブティック・ロジーヌ」の開店であるが、彼は現在のフォーブール・サントノレ街のパイオニアであった。
 デュフィとの出会いは、1909~10年ころである。ポワレは、デュフィにレター・ヘッドのデザインを頼んで、すぐに彼に装飾的想像力と技能を見抜き、その木版づくりに大変興味を持った。彼はその技術を布地に適用できないかと提案して、デュフィも賛同した。そのうえ、デュフィは木版の経験を持って、絹物への冒険に没頭した。ポワレが資金を出してクリシー大通りにスタジオ「プティ・ユージン」を設け、そこには染色専門の化学者も加わって、デュフィも様々な実際的な技術を学んで、すばらしい作品を作り出した。「われわれ2人、すなわちデュフィと私は、新しい仕事と興奮をもたらしてくれる職業の最先端にいたのである」(ポワレ)。

戦後の結実

 60歳を過ぎてもなお、制作活動は精力的であった。しかし、パリ植物園の装飾画、シャイヨー宮劇場のバーの装飾画などを手がけた後、デュフィは関節炎の最初の発作に襲われた。第二次世界大戦も始まろうとしていた。デュフィはドイツ軍の侵入を避けてニース、セレ、ペルピニャンと各地を転々としなければならなかった。そして病の治療を受けながら、絵を描いた。《アトリエ》や《オーケストラ》など、彼の重要な連作が生まれたのはこの時期である。このころにはまた、ペルピニャンに近い山間部コマンジュで麦の収穫を数多くスケッチして、これをもとに一連の「脱穀」ものも描き上げている。

 1952年、ベネチア・ビエンナーレ展でついにデュフィは国際絵画大賞を受賞する。しかも彼は、フランスとイタリアの芸術家たちの交流の基金としてこの賞金を寄贈した。同じ年、ジュネーブの美術歴史博物館では出展作品261点にも及ぶデュフィの大回顧展が開催されていた。

 翌月3月、デュフィは心臓発作に倒れ、75歳で世を去った。「デュフィが死んだとはとても考えられない。いたずらっぽそうな笑顔が、いっぱいに光の中でふっと消えてしまったかのようだ。しかし彼は、私達には、その多角的な才能を証として、さながら魅力的で非の打ち所のない流星とも見えるのである」(元パリ市立美術館館長ジャック・ラセーニュ)

 

買取・査定・鑑定はこちら