長谷川潔

長谷川潔

長谷川潔(はせがわ きよし)1891年に現在の横浜市で生まれる。大正時代、西欧文化への熱い思いを全身にまとい、憧れのパリで芸術に生涯を捧げつくした。フランスと日本という異文化が融合した芸術を生み出した。

「青い花瓶に挿した草花」1948年 東京国立近代美術館所蔵

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生い立ち

 長谷川家は横浜の町外れにある戸部の御所山という丘の上にあった。父一彦は渋沢栄一に認められて創設されたばかりの第一国立銀行に入社、神戸支店長を経て、当時は横浜支店長を務めていた。この父親のもとで育った潔少年が父から受けた影響は計り知れないものであったようだ。教育熱心であったので、小さい時から論語の素読を学び、書道を習い、日本画の筆法の手ほどきを受けたという。1902年に父が大阪支店長になったので、一家は大阪に移るが、以後父の美術品収集を通して書画や陶磁器の鑑賞法などさまざまなことを教わったという。

相次ぐ不幸の中から

 しかし、そのような経済的にも教養的にも恵まれた環境での幸福は長くは続かなかった。1903年に父を失ったのだ。母は3人の子供を連れて東京に戻り、潔少年は麻布中学校を卒業するが、ちょうどその年の秋、母をも失うことになったのである。潔本人もよく病気をし、学校を休みがちだった。丈夫になりたいと水泳、柔道などのスポーツに取り組んでみたものの、健康状態はいっこうに良くならなかった。そうして、好きな美術の世界へと進むことになった。

西洋文化への憧れ

 洋画の基礎を学ぶべく黒田清輝に素描を習い始めるために葵橋洋画研究所に入った。しかし、同研究所では東京美術学校受験のために学んでいる青年が多数で、美術の本質を教授されることもなかった。しかも、フランス帰りの画家たちから、美術学校で受ける教育が、渡欧して本格的に研究を始めたときに、妨げになるということを聞いた。このことより、美術学校入学よりも一刻も早く渡欧したいと考えるようになったという。1912年に岡田三郎助、藤島武二が指導する本郷洋画研究所が開設されたので、こちらにも入所して油絵を学び始めた。

版画への目覚め

 潔が版画を始めたきっかけは『聖盃』の表紙のためのペン画が思い通りに印刷されなかったことから、肉筆画を複製印刷するのではなく、活版印刷とそのインクに適するように自分自身で絵を彫り上げる必要を痛感したことであった。『聖盃』の木版画による表紙絵を交互に担当した永瀬義郎と、日本画家の広島新太郎(晃甫)の3人で日本で最初の版画家グループ「日本版画倶楽部」を結成し、第1回展を開催したのは1916年のことである。

 こうして日本における美術家としての活動も軌道に乗り、世間の評価も受けるようになるが、それに比例するかのように長谷川の心の内には渡欧の夢が広がるばかりであった。しかし、第一次世界大戦の戦場となっているフランスに渡るのは不可能であった。そして1918年11月に戦争が終結するや、待ちかねたように春洋丸に乗船し、アメリカ経由でフランスに向かったのはその年の12月30日のことであった。

フランスの美術界で

 長谷川の名が初めてパリの画壇に登場するのは1923年のサロン・ドートンヌに油彩画を出品した時である。以後、さまざまな展覧会に油彩画や版画を出品していくが、1924年にデュフィーの勧めにより、画家版画家独立協会に入会した。この協会は当時の新進の版画家であった人々による団体で、その活動は第一次世界大戦後のフランスの画壇に大きな影響を与えた。1935年に同協会が解散するまで毎年出品し、ここを舞台として銅版画家長谷川潔は世に出たといっても良いだろう。

「アレキサンドル三世橋とフランス飛行船」1930年 京都国立近代美術館所蔵

「玻璃球のある静物」1959年 京都近代美術館所蔵

 以後、敵国人としての辛酸をなめたこともあったが第2次世界大戦を経て、1964年にフランス芸術院のコレスポンダン会員に当選し、1972年にフランス国立貨幣・賞牌鋳造局において、葛飾北斎、藤田嗣治に続く3人目の日本人画家として、その肖像を浮き彫りにしたメダルが鋳造されるなど、長谷川のフランスにおける高い評価は不動のものとなった。しかし、1980年に89歳の誕生日を迎えてまもなくの12月13日、長谷川潔の生命はパリで燃え尽きた。

「ジロスコープのある静物」1966年 京都国立近代美術館所蔵

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