菱田春草

菱田春草

菱田春草(ひしだ しゅんそう)現在の長野県飯田市に生まれる。新世代絵画の創造にすべてをかけた人生は常に師・岡倉天心、生涯の友・横山大観とともにあった。個性と主観に彩られた次代の日本画への道を拓いた。

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早熟の天才たち

 1890年に春草が東京美術学校に入学した時、彼はまだ16歳の少年だった。そしてこの時、岡倉天心が正式に東京美術学校の校長となったが、天心はまだ28歳であった。そして春草の上級生には親友横山大観、下村観山らがいた。以後、希望と苦難の人生を共にする彼らとの運命的な出会いが、ここから始まる。

 春草は1年生の頃はさほど目立たなかったが、2年生のころから急速に頭角を現して、その傑出ぶりが学校中の評判となり、卒業の頃のその名声と期待は素晴らしいものだったという。その後、岡倉天心のもとで設立された日本美術院では大観、観山ら屋台骨を支える中心作家の1人として参加した。春草24歳の時であった。歴史に刻まれた天心や春草らの足跡の大きさを考えるとき、彼らのこの若さに驚嘆を覚えずにはいられない。

 

家族の絆

 春草は1874年、信州飯田の旧士族の家庭の三男として生まれる。本名は三男治(みおじ)。父・鉛治は維新後、飯田城の番人となり、1878年からは地元に出来た国立百十七銀行に行員として勤務した。次男・為吉はのちに東京物理学校の教授となり、多面体の研究者として知られた。弟・唯蔵も東大を卒業して、のちにその工学部の教授となっており、春草にも流れる理知的な血の所在を感じさせる。春草は15歳で上京したのち、没するまでの間に2度しか帰郷しなかったらしいのだが、彼ら兄弟たちとの交流は続いたという。

「エビとサザエ」1891年 東京芸術大学所蔵

「水鏡」1897年 東京芸術大学所蔵

 1898年に野上千代と結婚した。1902年に長男の春夫が生まれ、1904年に次男・秋成(あきしげ)が、1909年に三男・駿が生まれた。晩年、眼病の治療のために転居した代々木では毎日近くを散歩するのが日課だったが、それにはいつも子供たちがついていったという。自らの芸術的葛藤と、常に革新的な彼の絵に対する社会的批判という、内外の闘いに生きた春草にとって、家族は心のオアシスだったに違いない。

「王昭君」1902年 善寳寺所蔵

 

意志の人

 春草の親友、横山大観を情熱家とするなら、春草は寡黙で理知的な意志の人であった。渡米時には女性に間違えられたこともあったという優しい姿からは想像しにくいほど、その行動には一貫した強い意志が感じられる。不思議なことに、春草の肖像写真はその人の声や話しぶり、あるいは生活感といったものを感じさせない。これは、春草の静寂に満ちた作品群、とくに花鳥画作品の真空状態を思わせるような無音の世界にも共通するものがある。春草が外に向かって自分を主張するよりも、内にそれを凝縮し、言葉よりも作品や行動でそれを表示しようとする性向だったことに関係するものなのであろうか。春草はたびたび問題作を発表し、審査や評価をめぐる議論を引き起こした。しかし、常にそれを強力に弁護したのは天心や大観らであり、春草自身は言葉や文章による主張をほとんどしていない。

 天心はときに分裂的とも指摘される、別の意味での天才肌の気質であり、大観は情熱家である分、次の日には意見が変わることもあった。しかし春草の場合、いったん決意したうえでの行動は、決して変わることのない内的な意志の力に貫かれている。

 

渡印から渡米

 空気を描こうとした無線描法の実験を始めた春草はやがて「朦朧体(もうろうたい)」という酷評で絵が売れなくなる。朦朧体への批判が最も強かったのは、1900年の「菊慈童」のころであった。この頃から日本美術院の経営状態も悪化していく。当然天心の意向を反映したものであろう春草と大観のインド渡航とそれに続く欧米渡航は、こうした状況も反映している。春草の海外渡航は、この2回だけである。

 春草と大観は1902年、渡航の資金を作るためにまず真美会をつくり、翌1903年から半年間インドに渡った。そして帰国した1904年、春草と大観は天心らと共に西洋美術研究のため、アメリカに向けて横浜を出発する。春草らはアメリカ滞在中、アメリカ社交界のそうそうたる人々のバックアップを受けながら、ニューヨーク、ボストン郊外のケンブリッジ、ワシントンなどで展覧会を開催し、成功をおさめた。この成功は彼らにとって大きな自信と活動資金をもたらすことになった。

翌年の10月に帰国し、1906年には日本美術館は五浦(いづら・茨城)に移転となる。しかし五浦での生活も欧米遊学で芸術的指針に自信を得て帰ってきた彼らにとって、精神的落胆となるものではなかった。日本のバルビゾン(フランスで発生した絵画の一派)を目指し、制作三昧の生活を送る彼らの制作意欲はすさまじいものであっただろう。

「夜桜」1904年 飯田市美術博物館所蔵

「夕の森」1904年 飯田市美術博物館所蔵

 

視覚異常から失明へ

 ところが、五浦で1907年10月の第一回文展に出品する作品を制作中に春草の目に異常が生じ始めた。まっすぐ引いたはず線が歪んで見えたのである。それでも特に異常を訴えることもなく、医者に行くことさえ嫌がっていた。翌年、大観は医者の診察を受けさせた。結果は描くことの禁止であった。その後しばらくの間、治療と療養に専念することになる。半年を経た頃から病状も快方に向かった春草は、様子を見ながら制作を再開する。この時期に「落葉」「黒き猫」などの不朽の名作を生み出していく。画家にとって命とも言える目の異常の中で、こうした作品が描かれたことは、失明への不安と焦燥を内面の深化と芸術的成果へと昇華させていった。しかし1912年、ついに失明した春草は病状の急変によって37歳の生涯を閉じた。

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