片岡球子

片岡球子

片岡球子(かたおかたまこ)1905年に札幌で生まれる。

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自己の個性の確立

 片岡球子が秋の院展に初出品して初入選したのは昭和5年、その2年後に2回目の入選があり、3回目はさらに5年後になったために、当時「落選の神様」とあだ名されたという。皆からゲテモノ的な絵を描くからだとも言われていたというから、落選で味わった無念さ、悲観さは、深刻であったに違いない。だが、それに耐えて作風を変えることなく、ひたむきに描き続けていったことが、生気ある画面を展開させていったと言って良い。その頃、日本美術院の重鎮、小林古径から「人がなんと言おうとも、自分のやりたい方法で、自分の考える通りに、どこまでも描いていきなさい」と言われたことが、絵に対する自らの根本の覚悟をさらに深めたのであろうと思われる。
 片岡球子の初期作品は当時の女性たちの生きる姿を描いたものであり、身近に見ている人たちの生活感情を捉えていったものである。それらを表すために対象に迫真的に迫るような細密描写を含めた写実的表現を持ったと言って良い。戦前の日本画においてほとんど扱われなかった題材であり、手法であっただろう。色彩も極度の対比があったりしたが、戦前の日本画においてほとんど扱われなかった題材であり、手法であった。色彩も極度の対比があったりしたが、戦後の人物画においては色調が抑制され、画面構成がより優れた表現を見せている。現代に生きる片岡球子の日本画における新たな性格を見せる個性表現の確立である。
 また「人物画に打ち込んでおりましたので、人物の背景とか雰囲気などを表現するのに、風景画や植物画等が必要となり、独学でそれを学びました。(中略)はじめに滝を、次に海を、そして山を研究する事に致しました。一番私を困らせたのは、海でした」とも述べている。

「五合目からの赤富士」

火の山に挑む

 人物画に打ち込んでいた片岡球子が風景画を手掛けるようになったのは、昭和34年頃からである。初めは滝や渦巻く海などであったが、やがて山へと関心を向けていっている。山といっても、滝や海と同様、動的な力強い山々ばかりである。蔵王の火口を描いたり、桜島、浅間山、昭和新山など、活火山であれ休火山であれ死火山であれ火山を追い詰めていくのである。デフォルメをしながら、原色を独特に響かせ合い、火山の内部に潜む本質に迫っていくものといってよい。それぞれの火山が持つエネルギーをつかみ出すとともに、そこから触発された片岡球子の感情が奔放なばかりにあふれ出ている山々の絵となるのである。そして、かつて活発に噴火活動を続け、今は休火山となっている富士にぶつかることになる。火山シリーズは、多くの観者に共感を呼ぶものであり、風景画に新たな展開を見せているものである。

「牡丹と青富士」

面構え、人間性の探求

 京都の等持院で足利尊氏の木彫を見た片岡球子は、眉も目も垂れ、鼻はあぐらをかき、耳がたっぷりした福顔の、度量のありそうな顔に深く感じ入り歴史上の人物を次々と描こうと決意したと言う。人物の顔ではなく、心ににじませたその人物の面構えを描こうとしたのである。したがってここでは現実の人物の顔を通してその人物の性格を掴んで描いていくという肖像画ではなく、といって過去の人物だからといって勝手にその人物を想像して描いた肖像画でもない。その人物の内的世界に深く入るための、より綿密な資料調査、それに想像作用を豊かに色濃く織り込んだ人物画となっている。