絹谷幸二

絹谷幸二

絹谷幸二(きぬたにこうじ)1943年奈良県に生まれる。

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学生時代

 1943年奈良市に生まれる。家は古くからの料亭で、著名人が多く訪れ、祖父が集めた多くの古美術品に囲まれて育った。奈良学芸大学附属小学校に入学。子供の頃から優秀で、1年生の頃から担任の先生に絵の手ほどきを受けた。中学高校を通して美術部と野球部に籍を置く。1956年、奈良県美術展に油彩が入選。高校卒業後、東京芸術大学美術学部に入学。成績優秀で東大に進むことを期待されていたので少し反対されたが、自分の決めた絵の道を選んだ。最終的には東京芸術大を目指したのは、関東の荒削りな文化に魅力を感じ、奈良の古い文化から出たかったからだ。大学時代は貧乏だったが、これほど楽しい時代はなかった。同大学の卒業制作の「蒼の間隙」で大橋賞を受賞。そのまま同大学の大学院壁画科に進学し、島村三七雄教室でアフレスコ古典画の研究を行う。壁画科を選んだのは大学三年の時に法隆寺の壁画を見て深い感銘を受けたためであると本人は語っている。
 1968年大学院課程を修了し、芸大副手になる。同年10月、第36回独立展に出品し、独立美術協会会員になる。3回の出品で、最短、最年少での会員推挙であった。この頃、上野の森美術館で大井宏美と知り合いになる。

「潮音 ヴェネツィア日の出」

絹谷幸二としての確立

 絹谷幸二個人としての転機を与えたのは1970年7月、銀座・資生堂ギャラリーにて行った自身初の個展である。この頃から国内だけでなく、世界的な評価を受けるようになる。8月ヴェネツィア・アカデミアのブルーノ・サエッティ教授が芸大に集中講義に来た際、留学の招待を受ける。芸大副手を辞任する。
 1971年3月、大井宏美と結婚し、結婚式の翌日、片道の切符だけを持って、イタリアのヴェネツィア・アカデミアに私費留学。ブルーノ・サエッティ教授のもとで、古典・現代のアフレスコ画法の研究に取り組む。イタリアでは古典に囲まれて勉強したが、その古さだけでなく、その本質と新しいイタリアのセンスを勉強できたと語っている。またヨーロッパ各地を旅行し、模写もたくさんした。
 イタリアからの帰国後、長男・幸太が生まれる。奈良・高松塚古墳第三次調査に保存対策委員として参加。当時、壁画の研究をしていたのは日本人では絹谷だけであったため、文化庁から壁画の調査を依頼された。この委員にならなかったら、もう少しイタリアにいたかもしれない。
 1974年「アンセルモ氏の肖像」で第17回安井賞を受賞、これは最年少での受賞であった。「僕は独立の常任委員で、会員の絵を推薦する立場だったし、僕の絵画は安井賞向きとは思わなかったので、まさか受賞できるとは思わなかった」と語る。受賞を知った時は、妻と抱き合って、飛び上がって喜んだ、と言っている。安井賞をもらわなければ、もう一度イタリアへ行っていたかもしれない。
 1980年、日本大学芸術学部客員助教授となる。「よく作家と教育者の二足のわらじと言われるが、僕はそう思っていない。サルトルの影響もあるかもしれないが、芸術家はアンガージュマン(社会参加)しなければならないと思っている。僕は絵描きだから、絵を方法にし、教育によってアンガージュマンしていると考えられる」と本人は語っている。その後、5月にアフレスコ技法を執筆している。同年11月、アジア現代美術展に出品。12月には長女が生まれる。
 

「三美神」1996年

さらなる高みへ

 その後、日本大学客員教授を辞任し、自身の個展などを数多く手がけて、精力的に活動を続けている。イタリアで学んだ古典技法に日本画の画材を取り組んだ独自のフレスコ画で、洋画界に新風を吹き込み、鮮烈な色彩とダイナミックなタッチで女性、富士山、仏像など様々なテーマを追求してきた。そんな絹谷の人生で最も深く心に刻まれ、いつかは描きたいと思い続けてきたのが「無著・世観菩薩像」だという。生身の人間であり、菩薩でもある「無著・世観菩薩像」を洋画家である絹谷が、キャンバスにどう表現するのか、それは日本人の鎮魂と再生への願いであり、祈りの表現であろう。

「転依権現自画像」2011年