小磯良平

小磯良平

小磯良平(こいそ りょうへい)1903年神戸に生まれる。日本人として西洋絵画をもっとも明確に摂取した人であった。油絵で肖像画を多く残したことで知られている。

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明治の神戸、始まる

 小磯良平のふるさとの神戸の歴史は1868年の兵庫開港と外国人居留地の建設に始まる。外国人居留地は1899年、日本に返還された。30年の間に、かつての砂浜は整然と区画された街路に洋風建築の商館が建ち並ぶ市街地に変わっていった。神戸のモダニズムの幕が上がったのである。海の手の外国人居留地に対して、神戸の山の手には日本人が住む新しい市街地もつくられ、各地から人が集まる。

絵ごころの目覚め

 外国人居留地が返されてから4年。1903年7月25日、小磯良平は貿易を営んでいた岸上(きしのうえ)文吉、こまつ夫妻の次男として生まれた。外国人居留地の外に出る外国人、外国人居留地の中に移る日本人、神戸は内外人が雑居する町へと変化し始める。小磯良平はそのような町の子として育つ。小磯良平が岸上家と縁がある小磯吉人(よしたり)、英(ひで)夫妻の養子になったのは東京美術学校に在学していた1925年のことであった。

 小磯良平は小学6年生のとき、札幌から転校してきた田中忠雄(洋画家)と知り合い、友人になった。2人は県立第二神戸中学校(通称・神戸二中)に進学する。中学生になった小磯良平は生涯の親友になった竹中郁(詩人)と知り合う。

 小学生の頃から本格的に絵を学んでいた田中忠雄から、中学校の放課後に水彩画のスケッチ散歩に誘われて、小磯良平の絵ごころは目覚め始める。竹中郁も加わって、3人のスケッチ散歩は日課のようになっていく。当時の神戸二中では校内美術展が盛んであり、卒業の頃には、東山魁夷が入学する。

 小磯良平は1922年4月に東京美術学校に入学して、主席の成績で卒業した。在学中には藤島武二教室に通う。同期生の顔ぶれは素晴らしく、荻須高徳、牛島憲之、山口長男などの名前が揃う。小磯良平は中学校と美術学校を通して良き指導者、良き競争相手に恵まれて、画家として切磋琢磨する機会を得た。その結果は、第7回帝展に発表した「T嬢の像」が特選することで実を結んだ。 

 1928年、小磯良平は竹中郁と共に欧州への旅に出る。目的地はパリ。画家を志す小磯良平にとっても、詩人を目指す竹中郁にとってもパリはまぶしい存在であった。帰国後、小磯良平はアトリエを建てた。画壇へ乗り出す時は来た。

 戦争の影響

 国情は戦時色を濃くする。戦争記録画制作のため、陸海軍報道部の命令で、多くの画家が戦地に派遣された。小磯良平は1938年、40年、41年、42年の4回、従軍を命じられている。1945年5月、米国空軍の神戸空襲は、小磯良平の住居とアトリエを焼き払い、多くの作品が灰となってしまった。日中戦争から太平洋戦争と広がった戦争は日本の敗戦で終わる。この大戦の時代が小磯良平を含める同世代の画家にどのような影響を及ぼしたのだろうか。

「斉唱」1941年 兵庫県立近代美術館所蔵

 激動の時代の平安

 日本政府は1945年8月15日、ポツダム宣言を受託して、同年9月2日に降伏文書に調印した。そのときから1952年に対日講和条約が発効するまでの7年間、連合軍占領下の時代は続く。その歳月は、大戦下の時代以上に、日本の伝統的価値観と文化が試練に晒された長い時間であった。そのような戦後の日本で、小磯良平は1950年から1971年まで、東京芸術大学の教壇に立った。大戦後の海外では、新芸術思想、新芸術表現が激しく現れては消え、その様相は流行と呼ぶことができる。その時代の流れの中で、教育者小磯良平は、油絵の本質を指し示すコンパスのごとく、教え子の指針となっていった。

「室内のバレリーナ」1967年 小磯記念美術館所蔵

 1988年12月16日、85年の生涯を終え、小磯良平は目を閉じる。油絵ではなければ表現することが出来ない絵を描いた、60年あまりの画業は幕を下ろされた。残された作品はモダニズムの光を放ちつつ、油絵の本質を指し示しながら、鑑賞する者の心に残る清澄な情感を与える。それは平安と呼ぶ世界である。躍動の20世紀に生命を受けた画家であるがこそ、表現できる平安である。

 同時代の人の多くが、激動の時代であるがゆえに求めていた平安。小磯良平の作品は、同時代の人が心に秘めた、そうした思いの証言であるかもしれない。

「ギターを弾く男」1974年 西宮市大谷記念美術館所蔵

 

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