棟方志功

棟方志功

棟方志功(むなかたしこう)青森県生まれ。日本の版画家。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の1人。

「流離抄板画柵 獅子窟の柵」1953年

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美を表現する人

 棟方志功は1903年青森市に生まれた。15人兄弟で6人目に生まれた。棟方家は鍛冶屋だったが、父は職人気質で仕事を選んだり、他人に借金して生活は苦しいものになっていった。それが理由か子供の頃から、友達に頼まれて凧絵を描いてはお礼をもらうというような子供なりのアルバイトもやっていた。小学6年生のとき、授業中に飛行機が墜ちたというので全員で走って見に行く途中、つまづいて倒れ、眼の前にオモダカの花が咲いていた。志功はすべてを忘れてその花に見とれ、この美を表現する人になりたいと思ったという。

 

はじめての挫折

 17歳の秋、母親が亡くなった。わがままで気性の激しい父親に仕えて死んだ母の姿にこの世の最高の女性像を見ていたようである。この年、志功は裁判所弁護士控所の給仕になった。彼は仕事を済ませると、毎日のように2キロ走って公園に向かい、写生をした。写生する志功は青森の1つの名物になった。その絵好きが認められて、21歳になった1924年、弁護士たちの声援を受けて、絵の修行に上京することになる。

 上京してすぐ、現実は故郷で夢見たものと全く違うことを思い知らされた。青森時代、棟方は油絵に打ち込んでいた。ゴッホに感動し、日本のゴッホになろうと決意し、勉強は十分したつもりだったが、小学校を出ただけの学歴で、師匠もなく美術団体にも属さない、ぽっと出の田舎者である。そうでなくても美術界は系列や序列にうるさいところであり、これさえあればと信じていた紹介状は無視されるし、上京してすぐの帝展にはもちろん落選する。出品した作品は青森時代の自信作であった。

 

版画への開眼

 棟方は油絵について1926年に「神様のような安井・梅原でさえ油絵では西洋人の弟子にすぎない」という疑問を持ち、「日本から生まれた仕事がしたい。私だけで始まる世界を持ちたい」と願っていた。また「尊敬するゴッホでさえも日本の浮世絵に学んだ。版画こそ日本の芸業だ」とも考えた。しかし油絵を捨てて版画に専念するのは、それから10年後のことになる。実際問題として、当時版画で生活できた人は皆無に近かった。1928年志功は創作版画協会展と春陽会展に版画で入選する。1932年ロス五輪芸術競技に版画2点を出品する。

 その間、1930年に赤城チヤと結婚。生活を支えたのはチヤ夫人だった。彼女は暮らしがどんなに苦しくても画材だけは用意し、志功が内職をしようとしても許さなかった。

 

民芸との出会い

 志功は1936年春の国画会展に出品した作品が縁で、柳宗悦(むねよし)、浜田庄司、河井寛次郎ら民芸運動の指導者たちに出会う。「当たり前なものがもっとも美しい。自分で出来る仕事などたかが知れている。本当のものは個人を超えたところにある」という民芸の主張は驚きだった。これまで芸術は個人の力と考えていた志功はこの出会いから民芸の心を学び、その背後にある仏教の思想を知った。彼は乾いた砂が水を吸うようにそれらを吸収した。彼は猛烈な読書家であり、努力家だった。この勉強で彼の作品は急速に深みを増し、1作ごとに驚くほどの進化を見せた。

 その後時代は日中戦争から太平洋戦争へ進んだ。志功は出征する若者たちのため、生還を祈って虎の絵のふんどしのお守りを描いた。終戦までに2000枚、必死の祈りをこめた仕事だった。

 戦後は貧窮時代であり板木を手に入れるのも大変であった。葉書くらいの板切れさえ大事に彫った。鋸目(のこぎりめ)の残っている板に彫った作品もある。この時期に大作が少ないのはそのためだろう。しかし、1951年からの数年間の志功の活動はすさまじい。特に1956年に棟方が彫った板木は300枚を超えたものと思われる。

「観音経版画巻 阿修羅の柵」1938年 日本民藝館所蔵

 

国際的な評価

 この阿修羅のような奮闘ぶりを評価したのはまず海外だった。1952年第2回ルガノ国際版画展で「女人観世音板画巻」が優秀賞を受賞、1955年第3回サンパウロ・ビエンナーレ展に「釈迦十大弟子」などを出品し版画部門最高賞を受賞するなど「世界のムナカタ」の地位を確立する。しかし日本の美術界の反応は鈍かった。もともと版画がマイナー視されていたうえ、棟方の作風も経歴も画壇の美意識に合わなかったためか、国内での受賞は、1965年の朝日賞まで、このあと10年もかかる。

 実は志功に問題がなかったとはいえない。1953年、尊敬する梅原龍三郎が抜けて興味を失ったといって国画会を退会する。ところが志功はその秋から日展に出品した。日展のなかに版画部を作って版画の地位を上げたいという理由からだったが、時代錯誤の主張に見えて、批判された。ただ、そういうことに無縁の大衆は素直に彼の作品を受け入れた。その点は海外での反応によく似ている。

「華狩頌」1954年 棟方板画美術館所蔵

伝統を破る

 受賞以後の棟方は、常識の枠を破った壁画のような大作を次々と発表する。描線は次第に厳しくなり、故郷の青森に捧げる狂おしい表現が多くなる。またこの頃から女の顔というより仏の顔の優美な版画も増えていく。

 視点を変えて色彩の面から見ると、当初は群青や褐色を帯びた黄色や赤の少数の色を裏から抑えめに使っていたが、1956年頃から急速に色数が増えていく。1973年の「奥海道棟方板画」では版画と肉筆画とが完全に一体となった不思議な世界を構築する。

 こうしてみると志功は、かつて日本の伝統としての版画を選んだはずなのに、大きさといい、色彩といい、伝統版画とはまったく別の、というより世界の常識を打ち破る版画の革命に生涯を捧げてきたようにみえる。志功は1975年、72歳で亡くなった。限りない変化と前進を続けた果てに、燃え尽きたように終わった一生であった。

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