岡鹿之助

岡鹿之助

岡鹿之助(おかしかのすけ)1898年東京に生まれる。点描画法による筆致で独自の画風を作る。

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生い立ち

 麻布中学校2年の時から岡田三郎助に素描を学び始め、その末の1919年、東京美術学校の西洋画科に入学する。1924年卒業制作の「自画像」を何とか仕上げて同校を卒業する。というのも、美術学校では自画像を描かなくては卒業できないことになっていたためである。しかし、当時岡は極度の自己嫌悪に陥っていたのだという。それゆえ正面からではなく、二枚の鏡を使ってなんとか横顔の自画像を描いたのだった。ただ、注目すべきはこの時すでに肖像画に花などを添えて孤独でロマンチックな雰囲気を盛り立てようとした画面作りを行っており、すでに後年の画風を予告している。

 

卒業、そして旅立ち

 東京美術学校を卒業した岡はインド洋航路を使って1925年2月にパリにやってきた。恩師・岡田三郎助の紹介状を持って憧れの藤田嗣治を訪ねた。以後2人は親しく交流することになる。藤田が岡を訪ねることの方が多かったと言われている。藤田は岡に「美校で学んだことは捨てろ」と繰り返し、オリジナルなスタイルを作り上げることを励まし続けた。第二次世界大戦が勃発し、1939年9月岡はパリを後にした。14年7ヶ月の実りの多いパリ滞在であった。

「水門」1926年

第二次世界大戦

 日本に戻らざるを得なかったが、戦争が起こっていなければおそらくそのままフランスに滞在し続けていただろう。帰国して東京の田園調布の両親の家に落ち着いた。翌年、春陽会の会員として迎えられ、同展に滞欧作12点を発表。以後、春陽会の主要メンバーの一人として活躍する。1941年に田園調布にアトリエを新築し、観測所や灯台、発電所や教会、城といった特殊な建築構造物やパンジーを好んで描き続け、清楚で秩序ある岡鹿之助ならではの画風を確立していった。1969年に日本芸術院会員となり、1972年には文化勲章を受けている。1978年、心筋梗塞による心不全のため79歳で死去。

「僧院」1,966年

 

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