佐伯祐三

佐伯祐三

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佐伯祐三(さえき ゆうぞう)大阪市生まれ洋画家。激情的でメランコリックな感情溢れる筆致でパリの裏街や古い壁、郊外の建物などの風景を描いた。大阪新美術館建設準備室で多数所蔵。

「郵便配達夫」1928年

東京とパリと

 マルセイユ到着までの船旅で佐伯祐三が最初に書いた手紙らしいものは、1923年(大正12年)12月1日、上海で兄の祐正(ゆうしょう)に宛てた絵はがきである。選んで買ったはがきの着色版写真は ― 上海郊外の墓地 ― と説明書きがある。

 川端画学校、東京美術学校と続けて指導を受けた藤島武二を尊敬し、そのうしろ姿に、後光がさすみたいだ、と表現したお寺育ちの祐三、父と弟を失ったあとの渡仏には、すでに底流する生と死への息づかいがあった。翌年の年賀状にもノートル・ダム寺院の写真が使われている。

 中国人墓地も、モンパルナス墓地も、ノートル・ダムも、父と弟の墓石につながって見え、日本とパリの共通した人間の結末の世界と感得していたに違いない。

 父は浄土真宗房崎山(ふささきざん)光徳寺(大阪市北区)の13代目の住職、祐哲であった。祐三は1898年(明治31年)、3人の姉と、やがて最も良い理解者になってゆく兄の祐正、弟祐明とのあいだに生まれた。

なかぼんさんのずぼ

 幼名は秀丸、兄弟の真ん中にいたので皆は「なかぼんさん」と呼んだ。おとなしい子供で、からだは健康なほうではなく、よくお腹をこわし、頭の頂きにふたつの渦がぶつかって鶏のとさかのように毛が立っていた、と兄が書いている。

 大阪府立北野中学へは2度目の挑戦で合格、入学したが成績は下、巧みに及落のあいだをぬい英語と数学は特にひどいものだった、と当時の級友が言っている。あだ名はずぼ、性格がずぼらというよりも、身なり振るまい、しゃべりから受けるまどろっこしさがその表現に最適だった、という。他人には、ずぼ、だらしなくうつったようだが、当人は生真面目で懸命に生きようとしていた。むしろ、父はおっとりした性格と読み、いずれ医者にでもなれば、と考えていた。 

 口数の少ない祐三が油絵を描くと言いだしたのは中学4年生のころである。仲良しの兄を介して父も耳を傾けた。そのとき、即、画家佐伯祐三の未来像に結びつけたわけではない。大阪梅田にあった赤松麟作(りんさく)の塾へ通うことを許したものの、飽きてやめるのも時間の問題、と考えていた。会話の少ない祐三が、今度は卒業間近になって東京美術学校への受験を口にした。理解者の兄もこのときはあわてるが、最後に祐三に共鳴している。

藤島武二の後光

 佐伯祐三の生真面目さは、ときに執着性や猛進性をともなって振幅を強め、周辺の人たちをあわてさせた。

 さすがに卒業の年の受験はあきらめ、まず上京して藤島武二が主導していた川端画学校に入った。「雨の日などグッショリぬれた破れ傘を如何にも無雑作にふところに突きさしてドカんとアトリエにはゐつて来る。気取りのない野蛮は、変り種の多い研究生の中でも厳然と目立つてゐた」と当時の仲間が書き、しかし、デッサン力は抜群であったと続いている(江藤純平・田代謙助「学校時代の佐伯君」)。

 藤島は4年間の滞欧後帰国(1910年〈明治43年〉)して7年目、東京美術学校の教授の傍ら指導にあたり、そういう意味では最高の予備校的存在であった。週に1度くらいやってくると、教室には緊張した空気が張りつめ、ひと言ふた言学生にことばをかけて出ていった。祐三はその姿に後光がさしているみたいや ― とささやく。そして待望の東京美術学校西洋画科へ入学。本人以上に喜んだのは兄である。

ヴィナスへの恋と《自画像》

 「それがヴィナスそっくりなんや」と級友にのろけ、まどろっこしい自分のしゃべりに気がつくや、学校の板塀に鉛筆ガリガリ音をたてて横顔を描いた。やがて米子と初対面した級友は、板塀のヴィナスと直感できたという。

 2年生の夏の終わりに父が死亡、翌春には20歳の弟祐明が結核療養所で死んだ。祐三の自覚する”自画像”執着の始まりであり、父の死直前の、年上の女性米子との結婚の許し、東京下落合のアトリエ付きの家作り、と輻湊(ふくそう)する早期の心理のころである。執着した素人大工の家作りにもずぼの本性がのぞいた。便所を壊して増築するとき、使えない時間を計算に入れず、米子は数日間隣家のお世話になった。 

 新築した家の近くは、ゆるい高台から南に向かって高田馬場・新宿方面を見下ろす風景がひろがり、雑木林、谷、小川、藁葺(わらぶ)き、の農家、その中にモダンな赤屋根が点在した。家の裏側は谷のように下がり、左手のは湧水も出る洗い場があった。早朝農婦が野菜を洗い、鶏が鳴き、靄(もや)がたちこめた。

 丘続きには畏敬(いけい)しながら会うことはなかった中村彜(つね)が住み、《帽子をかぶる自画像》(1910年 ブリヂストン美術館)を発表し、死の前年の《髑髏(どくろ)を持てる自画像》(1923年 大原美術館)への終局を迎えるころである。祐三自身が恐怖心にかられていた結核という病に伏す彜を、敬意の眼で、身近な視点から注目した。

 祐三も彜と共通する光への親密から《帽子をかぶる自画像》を描き、すでにパリ志向をもつころ、彜のルノアールへの意識による《エロシェンコ氏の像》(1920年 東京国立近代美術館)を通じて、その色彩と筆触に影響を受け、卒業制作の《自画像》を描いた。

 ずぼの歩調はパリ志向のときも生きている。父のあとをひき継いだ兄は結婚後の家作りののちも生活費の面倒をみていた。銀座の象牙商池田家の娘米子へも実家からの送金があった。月300円あればまかなえた時代で、また当時パリ生活も可能であった。それならパリに行こうか ― といった程度の気持ちから始まっている。そのころ、すでにパリにいて、ヴラマンクに師事する里見勝蔵からの、いわゆる里見調の手紙はいっそう火をつけた。

 マルセイユまで1等が1000円、2等670円、特別3等490円がそのころの日本郵船の渡航費である。足の不自由な米子と2歳前の彌智子(やちこ)の同行を考えてか、最初は卒業後(1923年)9月中旬出発の1等を予約していた。8月の末、すっかり荷づくり、をして新橋にあった池田家の出店に荷物を預け、出発前の静養にと信州の温泉場に出かけた。

 ところが、留守中の関東大震災で預けた荷物は焼け、象牙の残骸もろとも白い灰の山になっていた。下落合の素人大工労作の家は火災は免れたが半壊していた。やむなく延期するが、今度は、3年先輩の西村叡(さとし)夫妻の強い渡欧希望と、祐三の計画までに渡航費が間に合わないことを聞いて、自分たちの1等を特別3等に格下げして西村夫妻分をたてかえた。おっとりした性格、金に対するおうようさ、浪費ぐせ、すべて祐三の性格 ― と米子は書いている。

パリの祐三と米子

 連絡の不手際から佐伯家族の着いたリヨン駅に迎えの里見はいない。シテ・ファルギエールの里見の前に突然現れた佐伯は、震災後の被災者然としたくすんだ労働服の姿であった。しかしそれがいつもの姿であり、かたわらには美しい着物姿の米子と彌智子がいた。

 ホテル住まい、郊外のクラマール時代ののちに、15区リュ・デュ・シャトー13に住んだ。

 通りに面した鉄の扉を開け右に曲がると隣が靴屋《コルドヌリ》、左に向かうとモンパルテス駅からの線路をまたぐ陸橋があった。その上から北側15区を見ると、天気の日にはエッフェル塔が見え、逆に14区側南サイドは、リュ・デュ・シャトーの古い町街並みが続いた。初めてパリらしいパリの風景と、モンパルナス駅南の庶民的な地区でのパリ生活に気がつく。

 現在、佐伯の時代の跨線橋などあとかたもない。佐伯のいた13番あたりはブールヴァール・パストゥールの広い道幅に揃えられ、新しい建物が駅までつながる。15区と14区にまたがるシャトーの通りは、境界にカタローニュ広場の円形ができ、メーヌ・モンパルナス都市計画の成果が、なじめない超高層のモンパルナス・タワーに代表される。

 カタローニュ広場から一方通行のシャトーの通りに入ると、佐伯が描いた《レストラン》のモティーフ、オ・カドラン(文字盤)という店が残る。しかし、都市整備のためか今年(1991年)の冬、廃屋になっていた。佐伯の描いた古いパリの写生地点は、ゆっくりひとつずつ消えていく。

 到着して半年くらいは観光馬車に乗り、右岸モンマルトルのサクレ・クールを含め、きょろきょろ歩く旅行者の眼の時期である。ルーヴル美術館、マドレーヌ寺院近くのベルネーム・ジュヌ画廊でセザンヌ展をみるころから、パリへの実感をもち始めた。

 半年たつころから地図を眺め、小さな郊外の村への旅を夢みた。その最初の旅こそ、かねがね兄事する里見に懇願していた、自作を持ってのオーヴェール・シェル・オワーズのヴラマンク訪問である。北駅から1時間たらず、ポントワーズで乗りかえ、蛇行が始まるとオワーズ河が見え隠れする。オーヴェールの駅を出て左に5分も歩けば、ゴッホが死の年(1890年)のパリ祭のころ描いた村役場や、そのとき泊まったラヴ―の店も向かい側に当時と変わらずに残っている。

 佐伯、いや里見すら予想だにしなかった「アカデミック!」というヴラマンクの決定的なことばを浴びせられたのち、叱責の真意を模索し、ヴラマンクに接近しようと数点のヴラマンク調の《村役場》を描いた。ゴッホのモティーフと知ってのことである。駅を出て村役場と逆の左手の小高い位置に教会がある。ゴッホが描いた《オーヴェールの教会》(オルセー美術館)と同じ視点から佐伯も描いている。右脇の道の麦畑の先にゴッホ兄弟の墓地がある。生涯に佐伯は3度足跡を残している。郊外への旅は、オワーズ河をさかのぼって、ドーミエが没したヴァルモンドワ、リラダン、ネル・ラ・ヴァレ、エロヴィーユ、エビリュ、オニー、そして、ボントワーズと半円を描いている。いかにも衝撃的なヴラマンクの一喝であったか。その彷徨の時間である。

祐生の帰国説得

 1925年(大正14年)の夏、兄祐生がロンドンのセッツルメント視察の途中にパリにやってきた。ヴェルサイユ宮殿やマント・ラ・ジョリのノートル・ダム、シャルトルの教会などへ同行するが、祐三のからだのことを心配して帰国を促す母の使いでもあった。送金が無理になったというものは表向きの理由である。サロン・ドートンヌの入選も果たし、兄の説得に同意した。この年の暮れ近く、再びパリに戻ってきたいと友人と話した。

 帰国して半年、すでに再渡仏の意志を明確化した。二科省の受賞、1930年協会での好評、画会の成功と多忙のうちに病身のことさえ忘れ、今度はシベリア経由での渡仏を計画し、2等と寝台車で3人分1110円13銭の見積書を取っている。

 

「煙突のある風景」1925年

再会したパリ、死

 2度目の滞仏時のブールヴァール・デュ・モンパルナス162の住居は現存する。ロマン・ロランが『ジャン・クリストフ』を書いたといわれる(1901年~14年滞在)のが同じ建物、佐伯のアトリエは左のアール・デコの入口を入って中庭に面した3階である。

 遅い秋、やがて暗くて重いパリの冬である。《オプセルヴァトワール附近》《カフェレストラン》などの第2次滞仏期の好モティーフが10分以内のところに散在した。荻須高徳(おぎすたかのり)、山口長男(たけお)らの後輩が今度は佐伯を頼ってパリにやって来た。

 郊外のヴィリエ・シュル・モランに後輩と同行したのは冬の2月である。20号を午前と午後1点ずつ描き、不満な日は夕刻3点目の20号を持って出かけた。

 パリに帰っても制作の手をゆるめず、《扉》のモティーフは病身で歩いても5分の位置に現存する。1991年の冬、佐伯の描いた扉の前で、静かに人が吸いこまれるように消えてゆくのを見た。佐伯が描いた死への扉なのか。画面右上に、RUE CAMPAGNE PREMIERE 27PORTE EN BOIS ― UZO SAEKI 1928と、かろうじて読みとれる。

 

「ガス灯と広告」1927年 東京国立近代美術館所蔵

 

 

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