東郷青児

東郷青児

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東郷 青児(とうごう せいじ)鹿児島市に生まれた洋画家。独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像が有名。当時余りの人気に通俗的過ぎるとの見方があったが、現在は他に類を見ない独自の美の世界感を再認識されている。

幸運なデビュー

 1915年(大正4年)、18歳の東郷青児は東京フィルハーモニー赤坂研究所の一室で制作に励んでいた。山田耕筰の好意に甘えアトリエにしたその部屋の中で、毎日聞こえてくる音楽を画面に取り入れようと、当時もっとも新しい抽象的な絵画に取り組んでいたのである。前年ドイツ留学から帰国したばかりの山田は、本職の音楽ばかりではなく絵画にも見識を持ち、ドイツ表現主義、カンディンスキー、ムンク、ココシュカらの存在を教えた。同年9月、日比谷美術館で変わった画風の展覧会が開催される。日本初の交響楽団を組織した作曲家山田耕筰の勧めによる東郷青児個人展覧会であった。

 風変わりな展覧会は注目を集める。運の良いことに有島武郎(たけお)が訪れ、弟生馬(いくま)に見に行くように勧めたことから、二科(にか)会の創立会員でセザンヌの紹介者でもある有島生馬の知遇を得た。これより東郷は生馬を生涯師と仰ぐ。後年、東郷は絵の描き方ではなく絵の心を教わったと語っている。生馬の勧めにより、1916年(大正5年)第3回二科展に【パラソルさせる女】を出品した東郷は、初出品初入賞で二科賞を受賞する。もっとも新しく、自由な美の創造基地たらしめんとして発足した二科会にとって、東郷の受賞はかなり意図的なものでもあったが、弱冠19歳の東郷の絵が文展とは違う二科を作り出す大きな流れの端緒を開いた。彼の絵は未来派の作品と言われ、のちに東郷は有島生馬の紹介状を持って、未来派の主唱者マリネッティを訪ねることになる。

 山田、有島との出会いは東郷に転機をもたらした。そして生い立ちをたどるとき、幸運とよべるいくつかの出会いを見いだせるのである。

鹿児島~神戸~東京

 ―――東郷鉄春。1897年(明治30年)4月28日生まれ、1901年(明治34年)神戸市で東郷春の私生子として届け出。同年石本鉄造五男勘造、東郷家に入夫、東郷春と婚姻により嫡出子としての身分所得。1903年(明治36年)家督相続、戸主となる―――。東郷青児、本名鉄春の戸籍は、父母の結婚までの複雑な事情をかいま見せる。

 鹿児島の士族、河野一郎右エ門の長女春は、13歳で同じく士族の東郷實文(さねふみ)に嫁いだ。實文の兄は薩摩藩英国留学生の1人で、鹿児島市内の南洲寺に隣接する南林寺由緒墓には、海外英輝居士・東郷愛之進實古の墓が現存する。實文は今・亭・若の3女を残して若くして病死。春が勘造と知り合い、鉄春を産んだのは、38歳のときである。3歳上の姉光江は、養女として入籍しているが、光江についで鉄春が生まれ、一家は鹿児島から神戸に移らざるをえなかったのではないか。1902年(明治35年)2月に弟真治誕生、3ヶ月後には神戸から東京へ移住している。

 鉄春誕生のとき、長姉今は21歳であった。長崎の活水女学校を卒業し、母校で教鞭をとったこともあり、母の河野家からクリスチャンである今は絵を好み、デッサンが得意であった。鉄春は生まれたときから、優秀な教師をもっていたのである。青児の号のもとになった青山学院中学部入学も、今の意向によるものだった。

 余丁町尋常小学校の担任本間は絵の上手な生徒に進歩的な図画教育をした。同級に林武がおり、林は草履を、東郷はマリア像を描いている。青山学院では留学経験のある小代為重に絵画の基礎教育を受けた。小代の息子義雄と和田英作の弟香苗らとクローバー画会を作り、展覧会をしたり、回覧雑誌を発行した。文学や音楽に親しみ、野球に熱中し、雑誌にこま絵を投稿する学生時代のなかで、東郷は次第に画家を志すようになる。青児の名は在学中から使っていた。

 呉服橋に竹久夢二の港屋が開店したのは、青山学院中学部卒業の年の10月のことである。夢二の3人の女弟子の1人に心ひかれた東郷は、港屋に通いつめ、夢二の妻たまきに可愛がられるようになる。不在がちな夢二の代わりに店の品物の絵を描くが、たまきとの仲を疑われ、港屋から離れる。しかし後年画壇の主流となるよりも大衆のための芸術を志すのは、このときに見た夢二人気の影響を抜きには考えられない。

▣東郷伝説
 1929年(昭和4年)3月31日の東京朝日新聞に、東郷と西崎盈子(みつこ)との情死未遂事件の記事が載った。  この事件は『婦人公論』に、中川紀元『彼等はなぜ情死したか?』(1929年5月号)、東郷『情死未遂者の手記』(1929年6月号)、盈子「颶風(ぐふう)にのりて」(1929年7月号)などの関係者の手記が相次いで発表され、また1933~35年(昭和8~10年)にかけて『中央公論』に断続的に掲載された東郷からの聞き書きによる小説『色ざんげ』は、宇野千代の代表作となった。さらには澤地久枝が『昭和のおんな1・妻たちと東郷青児』(『文藝春秋』1979年5月特別号)を書いている。  1955年(昭和30年)に、竹田道太郎『小説・東郷青児』(『藝術新潮』9月号)と大宅壮一『東郷青児論 ― 昭和怪物伝』(『文藝春秋』9月号)の2つの東郷論が掲載された。二科会で脱会騒ぎが起き、二科のボス東郷の存在がクローズ・アップされたことからでた東郷論である。  1960年(昭和35年)には、東郷自身が日本経済新聞の『私の履歴書』に生い立ちから留学、帰国までを巧みに脚色した半生記を連載している。そのほか田辺茂一『小説東郷青児』(『中央公論』1978年7月号)、田中穣『心淋しき巨人東郷青児』(『小説新潮スペシャル』1981年秋~1982年春号)など、スキャンダラスな私生活、画家というより興行師、怪物、巨人と書いた東郷伝説はいまも語り継がれている。

パリ留学

 東郷がパリ留学へと旅立ったのは、1921年(大正10年)、24歳のときである。パリでは藤田嗣治がエコール・ド・パリの一員として名声を博しつつあった。イタリアの未来派運動にも参加し、新しい絵画の本場で希望に燃える日々であったが、東郷は次第について行けないものを感じる。理論ばかりで、学びに来たはずの絵はどこにも見当たらなかった。

 留学の前年、東郷は永野明代(はるよ)と結婚していた。弟永野芳光とともに東郷を追ってきた明代は、11月に長男志馬(しま)を生む。パリへ来て半年、生活費はたちまち底をついた。翌年、東郷は、マリネッティの紹介でリヨンの美術学校に学んでいる。妻と長男は帰国させていた。1923年(大正12年)、関東大震災で仕送りの途絶えた東郷の生活はさらに困窮を極める。どんな仕事でもしたというこのころ、画家としての生活は望むべくもなかった。しかし有名なデパート、ギャルリーラファイエットの図書館に職を得て、帰国までの数年を平穏に過ごす。このとき学んだ壁画や装飾、デザインは、のちの仕事に大いに役立った。

 パリでの最大の収穫は、ピカソに出会ったことではないか。しかしこの出会いは、東郷に喜びとともに苦しみももたらした。ピカソにひきずられることもなく自分の絵を描くことに悩む東郷を救ったのは、ルーヴル美術館の名画の数々であった。

帰国後

 1928年(昭和3年)、8年間の留学を終え帰国した東郷は、第15回二科展に滞欧作23点を特別陳列する。第1回昭和洋画奨励賞を受賞し、はた目には華やかな生活であったが、生活のめどは立たず、長年離れて暮らした妻子ともうまくいっていなかった。そんなとき出会ったのが、西崎盈子である。しかし妻子ある男との恋を盈子の両親が許すはずもなく、2人は引き離される。失意の東郷の前に現れた中村修子との重婚、盈子との心中未遂、宇野千代との会った日からの同棲、明代との離婚。心中未遂から5年後に盈子に再会するまでの東郷の生活はスキャンダルに満ちていた。2人が正式に結婚したのはさらに5年後で、娘たまみの生まれる1ヶ月前のことである。

 絵で生活できるようになったのは、45歳を過ぎてからと東郷は語っている。帰国後の東郷は、コクトーの『恐るべき子供たち』に代表される翻訳やエッセーを副業にし、比較的売りやすい肖像画をよく描いた。藤田嗣治とともに、前衛的な九室会の顧問になりながら、前衛とはほど遠い少女を描く画家に変わってゆく。

紫(1939年)

▣晩年の好奇心
 サハラへの傾倒を深め、テント生活まで体験しだしたころ、東郷は彫刻というもう1つの楽しみを見つける。「彫刻ではぼくは幼稚園・・・・何から何まで面白い」と語り、制作に励む。1972年(昭和47年)、75歳で第57回二科点に2点の彫刻作品を初出品、以後毎年の二科に絵画だけでなく彫刻作品を出品するようになる。1975年(昭和50年)には彫刻部会員に推挙された。彫刻は絵画への刺激で、根本では絵画と共通すると東郷は述べ、彫刻家淀井敏夫は画家の彫刻だが、絵画の余枝ではなかったと評している。東郷の彫刻は自身の絵画の形態を3次元に置き換えたものである。サハラで知った大きな空間を表現したいという気持ちが絵画を超え彫刻制作へと結びついた。

二科会再建

 戦後の東郷は二科会とともにあった。戦時中に解散した二科会をいち早く再建し、1946年(昭和21年)には再建第1回の二科展を開催している。ヌードモデルを使った前夜祭仮装パレード、大作の奨励、芸能人の入選といった興業主義を積極的に推進し、大衆動員にめざましい成果をみせた。こうして画家というより企業的、政治的手腕にたけた興行師との東郷評が定着していく。その後分裂、離反騒ぎが何度か繰り返されるが、二科会のリーダーとして君臨、1961年(昭和36年)、理事制を敷いた二科会の会長・理事となっている。

 大衆化路線は彼の作品についても同じで、絵画だけでなく、壁画、緞帳(どんちょう)、マネキン、包装紙、雑誌の表紙と、大衆に身近な芸術、いわゆるデザイン的な仕事を積極的に手がけている。とくに壁画は、1957年(昭和32年)の日本芸術院賞受賞に結びついた。絵画においてもこの年は、第4回日本国際美術展で大衆賞を受賞しており、批評家の冷たさと対照をなす大衆の青児人気を印象づけた。

 安田火災の前身東京火災のパンフレットに、東郷の作品が使われだしたのは、1930年代初めのことで、東郷は同社が安田火災となってからも、社史の装丁やカレンダーなどアートディレクター的仕事を続けた。そして1976年(昭和51年)には、安田火災本社ビルに東郷青児美術館が開設される。絵画の大衆化とデザイン分野の仕事の1番大きな成果は、安田火災とのつながりであった。東郷はこの美術館を自作の常設館にとどまらず、さまざまな国の現代作家たちの作品を展示する国際交流の場にしたいと考えていた。晩年、ワンマン経営が嫌われ東郷離れが進みつつあった二科会にあって、美術館という文化の発信基地を得た東郷は、大きな夢を描いていた。

ヨーロッパからサハラへ

 二科会で東郷が果たした大きな仕事に、国際交流展がある。1959年(昭和34年)に、サロン・ド・コンパレゾン(パリ国立近代美術館)で二科展を開催し、翌年の第45回二科展でサロン・ド・コンパレゾンの作家の作品を展示したのを皮切りに、フランスではサロン・ドートンヌ(パリ、グラン・パレ)、またメキシコ、デンマーク、ポルトガル、エジプト、アルジェリアと各地で二科展を開催、また日本の二科展で外国作家を紹介し、一在野の美術団体としてはめざましい海外交流活動を見せた。

「バラ一輪」1966年 東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館所蔵

 これらの国際交流展は、東郷にいくつかの国から勲章と海外旅行の習慣をもたらした。そして仕事を兼ねたこの毎年の旅行が、画家東郷に大きな収穫を与える。パリはもちろんのこと、イタリア、スペイン、ギリシアなどヨーロッパ各国の街並みは青児式美人の背景に描かれた。さらに、1967年(昭和42年)、70歳の東郷は、サハラ砂漠に魅せられる。雄大な空間、人々の美しさ、砂漠の部族とテント生活をともにしたこともあった。70歳を過ぎ、肉体的に楽な旅行ではない。新しく、発見した砂漠の美に夢中になる姿は、若き日、前衛絵画に取り組んでいたころの熱意に共通するものがある。必要以上に女性を追ったのも、晩年肉体の限界に挑戦するような旅行を続けたのも、制作への意欲にほかならない。彼はいつも新しい美を探していた。1978年(昭和53年)2月にパリからリオ・デ・ジャネイロへ飛び、アマゾンの奥地を探検、4月に二科展開催のため熊本へ行き心不全のため亡くなる。3日後の81歳の誕生日はパリで迎えるはずであった。

 

モロッコの娘(1967年) 東郷青児記念損保日本興亜美術館所蔵