梅原龍三郎

 梅原龍三郎

梅原龍三郎(うめはら りゅうざぶろう) 京都市の出身である。代表作は「裸婦扇」「桜島」「富士山」など。ヨーロッパ留学で学んだ油彩画に日本の伝統的な美術を取り入れた。97歳で亡くなるまでに数多くの作品を残した

「裸婦扇」1938年 大原美術館所蔵

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ルノアールとの出会い

 梅原龍三郎といえば、誰しも彼とフランス印象派の巨匠ルノワールとの出会いをまず思い浮かべるのではないだろうか。ルノワールの絵を見た感激とこの巨匠に直接師事したことは彼のその後の画業にきわめて重要な影響をおよぼしている。すなわち、彼の前期の画業の展開は、終生変わることなく敬愛の念を持ち続けたルノワールの強い影響と、その影響からの離脱、言い換えればいかに彼自らの画風を築くかという葛藤のうえにあったといえる。ここでは、まずはルノワールとの出会いから触れることにしよう。

 梅原龍三郎が初めてフランスの地を踏んだのは1908年7月、それから1913年の5月までパリを中心とした滞欧生活を送った。20歳から25歳にかけての最も多感な時期である。

 彼はパリに着いた翌朝、さっそくリュクサンブール美術館を訪れて初めて実物のルノワールの絵を見た。当時の若い心の躍動がそのまま伝わってくるような彼の印象深い回想記『ルノワルの追憶』の中で彼は「そら、此の画こそ私が求めて居た、夢見て居た、そして自分で成したい画である」と記している。

 それから彼は毎日のようにリュクサンブール美術館に通うばかりか、パリの画廊やコレクションを巡って見られる限りのルノワールの作品を見たあげく、翌1909年の2月、紹介状1つなく臆する心と闘いながら勇を鼓して南仏カーニュに当時68歳の老大家を訪ねた。取り次ぎの人に「日本から来た」と強調したのが効いたのか、幸いにして本人に面会することができた。ルノワールもこの日本の若者を気に入り、以来親密な師弟の関係が結ばれることになる。しばらくして、梅原が持参した絵を見てから、ルノワールは褒めたという。これがどれほど強い励ましと自信を彼に与えたことだろう。

 優れた絵に感動できること自体1つの天分もしくは才能である。海を渡ったばかりの日本の若者がすぐさまルノワールの絵画世界に没入しえたことは、やはり彼に生来そなわっていた天分と彼の育った環境の中で培われてきた感性を思わないわけにはいかない。

 

京都に生まれて

 梅原は、1888年に京都の下京区に生まれた。家業は宇治屋を屋号とする悉皆屋(しつかいや・染物を業とする店)であった。兄や姉が居たが、次男末子の彼は大切に育てられた。彼は子供の頃から実家の店に図案や模様を描きに来る絵師たちを見て育ったため、後年の色彩画家としての素地は生家の環境の中で形作られたといえる。

 梅原は1903年の春、中学を3年で中退して、洋画家の伊藤快彦の家塾・鍾美会に入った。画家を志すとしても家庭の環境からいえば日本画に進んでもなんの不思議もないのだが、洋画家を志望したのは、ヨーロッパに対する憧れや、古い伝統をもつ日本画にない新鮮な魅力を洋画に感じたことなどがあるかもしれない。

 ところで、ちょうどこの1903年は関西の洋画壇が隆盛する転機となった年である。浅井忠といえば、明治初期に来日したイタリア人フォンタネージに学び、黒田清輝と並ぶ明治洋画を代表する画家である。その浅井忠がフランス留学帰国後の1903年に自宅を開放して聖護院洋画研究所を開いた。すでに京都には伊藤快彦らの家塾があったが、これらも聖護院洋画研究所に合併されることになった。すなわち梅原は絵を学び始めてまもなく浅井忠という優れた指導者に学ぶという幸運に恵まれたのである。聖護院洋画研究所はその後さらに拡充されて関西美術院となった。

 

フランス留学

 梅原がフランス留学の途についたのは1908年の5月30日、神戸からマルセイユまで50日近い船旅であった。この時同行したのが、関西美術院で学んでいた田中喜作(のちの美術史家)で、彼は新着の海外の書物や雑誌によってヨーロッパの美術事情によく通じていた。梅原はこの船旅のあいだに田中喜作が持っていた美術史の本から初めてルノワールの名を知った、と後に語っている。

 梅原の滞欧中の最も重要な事件はもちろん最初に述べたようにルノワールとの出会いである。そしてルノワールから学んだ多くのこと、1911年夏にスペインに行きエル・グレコに感動を覚えたこと、あるいは1912年秋にイタリア旅行を試み、ことにナポリの風景を気に入り、美術館ではポンペイの壁画やティツィアーノの作品を自由模写したことなどは、どれも彼の審美眼と制作を豊かにする貴重な体験であったことは言うまでもない。

 ただもう1つ、この留学中のことで付け加えておかねばならぬことがある。これは高村光太郎が語っていることだが、梅原がパリでまだアトリエを持てずにいたころ、高村のアトリエで彼と一緒に梅原は2点の油絵を描いた。高村はその大胆で流暢な筆致と色彩のよさに舌を巻き、この青年、なかなかのものになるなと強く思ったという。

 

みずからの画風

 1924年というと梅原36歳、パリ留学から帰っておよそ10年後のことになるが、その年の二科展を評して「仏蘭西新画の出店芸術」といい、「もう少し無意識のうちに、自然と伝統を異にし、より複雑な教養ある種族としての性情がにじみ出るのが本当の吾等の芸術でなければならないと思わせられます」と述べている。

 たしかに二科展のみならず日本の洋画壇の全体は、次々に紹介されるヨーロッパ絵画の動向への応接に忙しかった。それにしても、あれほどまでにルノワールに傾倒して、フランス文化に深く馴染んだ画家から、この言葉を聞くと、少々違和感を覚える。

 しかしながら、パリ留学後の10年間、それは梅原が自らの画風を築くための苦闘の時期であった。実際この間の制作は滞りがちとなり、完成作も他の時期に比べて少ない。いかにルノワールの芸術に心酔しようとも、その画風を追っただけではルノワールの一エピゴーネン(ある人の思想につきしたがっている者)にすぎない。独立した芸術家になるためには、彼自身の独自なものの見方、それに即した手法による絵を描かねばならない。一方、ヨーロッパで学んだ画法は、生活も文化もまた風土も日本とは異なった環境から生まれたもので、これによって日本の自然を描きあらわそうとすれば、そこに違和感が生じるのは当然である。すなわち梅原の留学後の10年間はルノワールからの離脱と自らの画風模索に費やされた期間といえる。

 そして、この10年間の終わり頃にようやく彼は制作を順調に進めることができるようになり、独自の様式を展開し始めた。こうした段階に至ったからこそ、先の日本の洋画界に反省を求める言葉を口に出すことができたのである。

 

成熟期と晩年

 梅原の芸術の成熟期は1934年から1940年代前半期とみてよく、この時期は「桜島と北京時代」と呼ばれることがある。もちろん薔薇などをモチーフとした静物も、彼の代表的な裸婦像も多く描かれている。しかし1934年に初めて鹿児島に旅行して、煙を噴き上げる雄大な桜島に心打たれ、この火山を豪快な筆致で描いた作品や、1939年に第2回満州国美術展の審査員として大陸に渡った帰路に立ち寄った北京の景観に感動して描いた北京風景が優れた作品が高く評価されているからである。

「雲中天壇」1939年 京都国立近代美術館所蔵

 それほどにも旺盛な制作量を誇った梅原龍三郎も80歳の半ばを過ぎたあたりから絵に緩みが見えてくるのは、やむをえないことだったろう。特に1977年に長年連れ添った夫人に先立たれてからは作画量も減った。梅原が亡くなったのは1986年1月、97歳であった。新聞紙上に発表された「葬式無用、弔問供物固辞すること、生者は死者の為に煩わさるべからず」という遺言状に、ある感慨をもった人は少なくなかったはずである。

「姑娘とチューリップ」1942年 東京国立近代美術館所蔵

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