山下清

山下清 

山下清(やました きよし)東京生まれ。貼絵とペン画を多く残す。日本中を放浪していたことで知られる。「裸の大将」などで世の人々から親しまれた。代表作に「長岡の花火」がある。

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「長岡の花火」1950年

 

生い立ち

 1922(大正11)年、山下清は東京浅草に生まれた。3歳になった清は、 重い消化不良にかかり3ヵ月後に完治するがその後、後遺症から言語障害になってしまう。その後も清には不幸が続いた。10歳の時に父が他界、その後母は再婚したものの2年後に離婚。母子家庭になった清の子供時代は、決して恵まれた環境といえるものではなかった。小学校では環境に馴染めずいじめに遭い、 次第に暴力的な反抗をみせるようになってしまった。そのいじめの殆どは言語障害や知的障害が原因で、周りの子供たちから、よってたかって馬鹿にされたのだ。しかし清は、言語障害はあるものの驚異的な記憶力の持ち主であり、トランプの神経衰弱では誰よりも明確な記憶力を発揮していた。記憶力という意味では彼の漢字の記憶力には圧倒されてしまう。大人でも書けないような炬燵(こたつ)、麒麟(きりん)、蒟蒻(こんにゃく)、など難解な漢字も全て習得し、すらすら書くことができたのである。この記憶力は、後に彼が絵を描く上での大きな特長になっていくのではあるが、少年時代の清に現実は厳しく、世間は冷たい目を向けていたのも事実である。当時の清はまさに弱者そのものであり、既に彼の居場所は彼が通う小学校には無くなり、千葉県にある八幡学園への転校を余儀なくされたのである。

貼絵との出会い

 八幡学園での生活は、決して清自身満足したものではなかった。が、そこでの生活には自由があり、 周りからいじめられることもなかった。学園への入園は、今後の清にとって大きく人生を変える転機といえる。それは貼絵との出会いである。 清は学園の教育方針により、「ちぎり絵」の教育を受けることになった。当時の清は日記に、「園長先生は僕をこの子は 勉強でも 用事でも何でも出来ないので 何やらしても満足に出来ないのでこの子に何をやらしてやろうかと考えて少したってから この子に色紙で絵を貼らしてやろうかと言って 園長先生が僕に大きな画用紙を出してここへ戦争の絵を貼れと言って僕は学園に来てから色紙で絵を貼るのは 初めてで 色紙で絵を貼るのは珍しく思って居ました」と記している。

 貼絵作品の初期は、色紙を大きくちぎって貼り付ける子供らしい作品であり、描かれた作品には蝶やトンボなど彼の身近にいた昆虫が中心であった。清は小学校でいじめを経験したせいか、初期の作品に人間不信からか人物は登場してしていない。彼の作品に人物が登場するのは、学園に馴染んだ頃からである。次第に彼の作品は昆虫から学園での出来事、友達との体験をもとに得た作品が増えてくる。そこには日常的に学園で繰り返される生活が作品に描き出されているが、あくまでも学園という限定された範囲の中での作品であった。

心の風景

貼絵を習得した清は、次々に見事な作品を仕上げていった。そして学園に入り、6年の月日が流れた1940(昭和15)11月18日、突然清は学園を飛び出し放浪の旅に出るのである。清は日記に「僕は八幡学園に居たので 春になって暖かくなると 出かけるくせがあるので 出かける前には 学園に居て 毎日貼絵をやったり油絵具をやって居る生活と毎日るんぺんをしてい る生活とどっちがいいか とよく考えて居ると どっちも楽しい時と 苦しい時もあったり どっちも食べて行かれるから五分五分 と思うから 自分の好き好きだから どっちにしょうかと迷って居た」と振り返り、「いつ迄も迷って居るときまりがつかないから 思いきって きまりをつけてしまおうと思い じゃるんぺんに 成ろうと思って るんぺんに成る支度をして」「先生にことわって出かけるのは恥ずかしいと思うから先生にことわらないで 学園から出かけた」と綴っている。清にとって放浪の旅は、金銭や食事、寝るところの不安を抱きながらの逃避行的なものではなく、むしろ足の向くまま、気の向くままの快適なものであり、その種の不安は大した問題ではなかった。そして清の放浪の旅は、1954(昭和29)年まで断続的に続くが、放浪に飽きると学園や 自宅に戻る生活を繰り返すのである。次第に成長していく清は、放浪の旅で様々な出来事を体験し、放浪から戻るとその体験を作品に仕上げていった。清は旅の記憶を脳裏に克明に焼き付けており、学園が義務付けていた放浪記と共に、まるで今、目の前に広がる風景を描くがごとく画用紙に描き残していったのである。

 放浪の旅を繰り返す清が31歳の時、またしても大きな転機が訪れた。アメリカのグラフ誌「ライフ」が清の貼絵に感嘆し、放浪する天才画家・山下清の捜索を始めたのである。そして朝日新聞も全国網を使い、放浪を続ける清の捜索に乗り出す。まもなく清は、鹿児島の高校生に発見され、長い長い放浪の旅に終止符が打たれた。しかし本当のところは、放浪をやめる決断を下したというよりは、 あまりにも有名になり放浪出来なくなってしまったようである。

芸術家・山下清

清の自由気ままな放浪の旅は、鹿児島で終止符が打たれた。ライフや朝日新聞の大捜索の影響であっという間に時の人になった清は、周囲からの薦めもあり、画家としての人生を歩むことになった。「芸術家・山下清」の誕生である。1956(昭和31)年、清が34歳の時、東京の大丸百貨店で開催された初めての本格的な個展では80万人という驚異的な動員で、その人気の高さを、人々の記憶と記録で残した。この動員は、未だ日本美術史上で破られることは無く、 今や伝説として語り継がれている。

 その後も清の個展は全国で開催され、出来る限り自分の個展に足を運んだ清は、日本中を歩き回った。今度は放浪の旅ではなく、作家としての旅であった。芸術家としてスタートした山下清は、卓越した技法で超人的ともいえる作品を次々に発表していく傍ら、次第に貼絵以外にも興味を持つようになっていく。全国巡回する個展で地方に行くと窯元を訪れ、陶器の絵付けにも精力的に取り組んだ。また油彩にも挑戦し、印象派を意識したかのような作品も手がけるようになっていく。また、この時期に積極的に取り組んでいたものにペン画がある。フェルトペンで描かれたペン画は他の技法と違い、失敗が許されない。しかし清は、脳裏に焼き付けられた構図をいとも簡単に作品として描き、周囲を驚かせた。 このペン画における手法は、芸術家としての清の才能を、更に輝かせるものとなり、貼絵と同様に独自の芸術感を決定的に印象付けるものとなった。この頃、山下清ブームはより一層高まり、15年間の放浪を綴った日記が東京タイムズでは『放浪日記』として、また文藝春秋では『回想録』としてそれぞれ掲載され、清の独特な言い回しと、物事を正面から見据えた文章が多くの読者から支持を得た。また映画「裸の大将」(小林桂樹主演)が公開されたのもこの時期であった。映画は興行成績的にも成功し、一気に山下清人気がピークを迎えていくのである。清本人は、映画の中の自分とのギャップを強く感じていた様であり、デフォルメされた姿を快く感じていなかったようである。

ヨーロッパへの旅

1961(昭和36)年、東京オリンピックを控えた日本は高度経済成長期を迎え、戦争の影が次第に忘れ去られてきた時期であった。当時1ドル360円の時代に、山下清は自発的にヨーロッパ旅行を決断した。その頃の日本は、飛行機に乗って海外旅行など夢のまた夢といわれていた時代で、パスポートの申請なども今のように簡単ではなかった。「僕は日本中ほとんど歩いてしまったので どうしても外国を見学したい」と彼の思いは強く、ついにスケッチブックをカバンに詰め、40数日間のヨーロッパへの旅がスタートした。ヨーロッパ旅行は、ドイツ、スウェーデン、デンマーク、オランダ、イギリス、フランス、スイス、イタリア、エジプトなど10数ヵ国を短期間で回るハードスケジュールであった。清の目に映ったヨーロッパは衝撃的なものであった。初めて観るヨーロッパには、異国情緒があり、人々の姿、町並み、風景、そしてヨーロッパ文化がすべて新鮮で感動的なものであったに違いない。放浪時代は、旅先で絵を描くことをしなかった清だが、ヨーロッパでは行く先々で観光地を訪れ、旅先でスケッチも行った。旅行中は観光地以外も訪れ、美術館鑑賞なども行っている。旅行の途中、パリから2時間ほど郊外にある小さな村オーベールにも立ち寄った。この村は巨匠・ゴッホの眠る村である。「日本のゴッホ」と称される清は、ここでゴッホの墓もスケッチしている。

 帰国後の清は、現地でのスケッチをもとに、脳に焼き付けた風景を次々に作品に仕上げていった。ヨーロッパを題材にした作品は貼絵の他、素描や水彩画、陶器の絵付けと様々な手法で描かれたが、このヨーロッパの作品群は、遠近法や点描画としての表現力、超人的な色彩感覚など、非の打ち所の無い秀作揃いであり、成熟した清の芸術性が如実に表れた、繊細でクオリティの高い作品として仕上がっている。清の芸術性は、その完成度の高さから、この頃に頂点を極めたことが伺える。このヨーロッパ旅行の一連の作品は、晩年の清の芸術的評価を決定的なものにするが清は当時を振り返り「ヨーロッパやアフリカなど見て面白かったが やっぱり日本が一番住み良い事がわかった」と冷静な感想を述べている。

 清はヨーロッパから帰国後、個展の全国巡回が忙しかったこともあり、作品の制作活動が徐々に減っていく。その原因は、多忙であったという理由だけではなかった。晩年の清は、高血圧網膜症の傾向があったため、それまで精力的に行なっていた貼絵から少し離れ、比較的疲れを感じない「ぺン画」の制作に積極的に取り組むようになる。一連のヨーロッパ作品でもその技術が高く評価され、頂点を極めた「ペン画」の技術には一層磨きがかかり、人々の心を魅了していった。しかし一方で雑音も聞こえてきた。“なぜ山下清は貼絵をしないのか””彼は貼絵を捨てたのか”、“新しい貼絵をもっと観たい”これらの意見は清にとって、大変な苦痛であったに違いない。

遺作・東海道五十三次

 清は周囲からの薦めもあり、大作に挑むことになった。「東海道五十三次」である。

 清はライフワークとして、素描による「東海道五十三次」に挑むのである。最終的には貼絵に仕上げることを夢見ていた。清は、スケッチ旅行の起点・日本橋へ到着すると「こんなにごちゃごちゃしている所ではスケッチはできない」と言い出し、場所を移す。彼が選んだのは皇居前広場であった。結局、この皇居前広場を見下ろすビルの屋上からスケッチは始まった。この時清は、飽きることなくビルの上から半日近く皇居を眺めていたという。約5年の歳月を掛け、東京から京都までの取材スケッチを終えた清は時間を気にすることなくマイペースで素描を仕上げていった。素描の完成度は極めて高く、後に貼絵にするのが惜しいほど完璧なものであった。そして《熱田神宮》まで描き上げた時、清は軽い眼底出血を起こしてしまう。その後、清は東海道五十三次の制作を一時中断し、静養に入る。2年後、体調も回復しつつあった清は家族との夕食後の語らいで「今年の花火見物はどこに行こうかな」という言葉を残し、突然脳出血を起こしてしまう。そして2日後の1971(昭和46)年7月12日早朝、清は最後の一人旅へと出掛けるのであった。享年49歳。

 清の死後、今まで家族ですら開けることのなかったアトリエの押入れの中から、未完成と思われていた京都までの残り13枚が発見される。きっと静養中にも関わらず、せめて絵だけは仕上げておこうと家族には内緒で、こっそりと描き続けられていたのであろう。こうして清の東海道五十三次は、貼絵にこそならなかったが 全55点が造作という形で完成したのである。

「金町の魚つり」

 

「清の見た夢」

 

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